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茶と美 2000年1月 1日 01:00 投稿

柳 宗悦 1986/11/25

 この本を読んだきっかけは、朝日新聞の書評を読んだからだと言ったら笑われそうですね。その記事は特に「蒐集について」の章についての評がほとんどで(書評者が茶の湯に詳しくなかったということもありますが)、多少とも蒐集癖の或る人ならば、読んでみたくなるような内容でした。書評の書評になってしまいましたが、茶の湯または茶道の世界に少なからず疑問を抱いている方、また、前出しましたが「蒐集癖」の極意を知りたいという方は是非、御一読されることをお勧めます。
 柳 宗悦は20世紀の日本の民芸運動の創始者であり、また「日本民芸館」を設立した人でもあります。「蒐集は私有に生い立つが、進んでそれを公開し、または美術館に納めることは一つの美挙である」という文章が示すように、彼は「日本民芸館」を設立し、日本はもちろん、海外から集めたものをそこで公開しています。机上の空論を述べるだけではなく、実践の徒であったことは非常に心惹かれるものがあります。
 さて、全編を通して一貫して語られているのは「無事」という禅語に集約されているように感じました。禅語におけるその意味は「真っ白」という気持ちでとらえてもらえるとわかり易いと思います。茶の湯に関わらず、生きる姿勢も常に「白」、すなわち先入観というものを捨て、心の目で物事を見つめることでそれが持っている真の姿が見れるということです。茶碗で例えるならば、箱書や大名物であるという、ただそれだけの視点のみで物の価値観を判断することは大きな間違いであると彼は説いています。そして、そういう価値観を作ってしまった茶道という世界のあり方を、もう一度考え直すべきではないかという提言ももちろんされていきます。
 茶道では床に掛ける「軸」がその茶会の意味を表現する一番大切なものです。その多くは禅語で書家は一般的に「徳の高い僧侶」というのがほとんどです。「茶禅一味」という言葉が示すように禅と茶道は密接に結びついたものであり、茶道も「道」という文字が付く限り、それは修行・修練の場でなくてはならないはずです。が、彼は現在(と言っても20年前の事ですが、21世紀の今もそれは変わっていないように思えますが。。。)の「茶道」のあり方を痛烈に批判しています。小気味よく、歯切れ良く、理論的に看破していく文章のその底流には常に「無事」があり、そして茶道に対する愛があればこそ、そのような見方ができるのではないでしょうか。
 ここで、自らの茶道と向き合う姿を省みてみることにしましょう。禅語についての知識は皆無です。また、修行という目で茶道をみることは今の生活からは程遠いものがあります。よって、私の茶は「茶道」ではなく「茶の湯」であろうというのが、この本を読んで改めて認識させられました。宗悦は「茶」がそのような姿になることについて、苦々しい思いがあると思うのですが、時代は彼が思うほど優しくはなかったのです。ですが「茶」本来が目指したもの、その精神性はうけついでいかなくてはいけないと考えます。その為にも多くの若い方々が「茶」に親しめるような環境を作っていくことが「茶の湯」を伝承していく私たちの勤めだとも思います。
 その為にどのようなことをすべきかという、宗悦なりの意見がどの章にもちりばめられていますが、特に印象に残ったものを上げてみます。「茶事を茶室で行なうのは当然のことだが、一歩茶室を出て、家庭の暮し、普段の居間、茶の間や台所に入ると、およそ「茶」の心とは関係のないものが沢山つかわれている」この部分は痛いものがあります。そして「私は普段の「茶」、茶室でない折の「茶」の意義を重くみたい」と結んでいます。普段の生活の中で「茶人」であること、あり続けること、これぞ「茶道」という道の修行であるように思えるのです。

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