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茶人よ自由になれ(茶の心 茶の美) 2000年1月 5日 01:00 投稿

有馬 頼底 昭和60年10月22日初版

 著者の有馬氏は、現在、京都「相国寺」の住職であられます。茶道の世界では千利休の菩提寺である「大徳寺」がこの世界では中心的存在となっています。千利休関連の書物や評論にもにも必ずといっていいほど登場しますが、禅思想との関わりが深い茶道ならば、他の寺が登場してもおかしくないはずです。そう言った意味では、氏の「相国寺と茶の湯」の章は現在の茶道界の基本にもなっている、三千家を作られた「千宗旦」との関係が明確に語られ、もし、この関係が無ければ現在の茶道も無かったのではないかと思わされます。従って、氏の現在の茶道界についての批判もまた手厳しいものがありますが、裏を返せば、そこには「基本に帰れ」という心情が脈々と流れています。副題の(茶の心 茶の美)とは氏のそのような思いが託されているのでしょうか。
 「木を見て森を見ず」という諺がありますが、茶道の世界も細かい点前に捕われ過ぎて、本来の姿を忘れているように感じます。『お点前ができ、お茶を飲む作法を知っている、というようなことは枝葉のことであります。そのためにお茶を習ってもなんにもならないと思います。』花嫁修行の為にお茶を習っている方も多い昨今ですが、では、この世界に何を求めるのでしょうか。氏はこう語ります『最終的には、茶の湯というものを通して、自分自身の人格を磨き、カラリとした境地に至る、それが何よりもたいせつではないでしょうか。』なるほど、床に墨跡を掛ける意味とは、実はそこにあるわけです。それを実践できるよう茶会、茶事を催すことは、また、日頃のその人の生き方にも依存してくるのですから、茶の湯の世界も嘘はつけません。茶の湯の世界に足を踏み入れてまだ7年ほどですが、自由になれない茶道の世界を知り、最近はちょっと窮屈に思えてきましたが、氏の書物に出会えて、少し元気がでてきました。
 「日々是道場」という禅語がありますが、人生も半分生きてきた今、この語りを常に胸におき、精進したいものです。茶の湯が人生後半戦の手助けをしてくれるような生き方を、自分の中で築けるでしょうか。夢はありましたが、挫折しそうでした。「本来無一物」が語るように、無であることこそ自由の砦ではないかと思うのですが、茶会などで拝見する高価なお道具類をみる度に「道具あってこその茶の湯」と思うばかりです。ですが、宗旦や丿貫(へちかん)、また、利休が求めた茶の湯とはそんな世界ではなかったはずです。氏はこれについて、こう語りかけます『真に豊かな茶人とは、なにも名物道具をたくさん持っている人のことではありません。利休さんの道具を見ましても、(中略)なにげなく身辺にあるものが、たちどころに、素晴らしい道具に早変わりする、というような道具の用い方をしています。』夢は再び立ち直れそうです。
 この書は、茶道のみならず、禅宗の世界との関わり、また、禅宗や禅語ついても優しく解説されています。氏の小僧時代のエピソードには思わず苦笑させられ、また、師との別れの場面は涙を誘うものがあります。相国寺の偉い坊さんも人間なのだと思うと、今ある自分、凡人以外のなにものでもない己が、妙に大切に思えてきます。「柳は緑 花は紅」人生も、茶の世界も当たり前のことを大切にしていきたいですものです。

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