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神屋宗湛の残した日記 2000年1月 6日 01:00 投稿

井伏鱒二 1995/6/28

 この作品の初出は著者84歳、雑誌「海燕」に昭和57年1月〜9月に連載されたものです。単行本未収録の作品を編纂した一冊の本の中にあったものです。たまたま図書館の書棚をぼーっとみているときに発見したもので、もし背表紙に「神屋宗湛の残した日記」ではなく、他の題名になっていたら、もしかしたら一生出会うことのなかった作品だったかもしれません。
 井伏鱒二と言えば「山椒魚」「黒い雨」しか読んでいなかったため、お茶の世界とはおそらく縁遠いであろうと思う人が、よりによって宗湛の日記を解説してくれることに興味を持ち、さっそくページを繰っていきました。
 彼がこの作品を書くにあたっての理由が導入部に書かれています。小瀬甫庵「太閤記」を読み直し、「秀吉公遺物配分記録」から話が展開していきます。この配分記録の中には秀吉の愛蔵した茶道具の名品も多く含まれ、そこから宗湛の日記へと話は進展していきますが、井伏鱒二が宗湛の日記を口語訳しようという理由はまだ見あたりません。
 宗湛は20歳代のとき織田信長に招かれて博多から上洛し、本能寺の変に巻き込まれます。そのときに持ち出した掛軸 牧谿作「遠浦帰帆」と言われています。秀吉が朝鮮出兵の折りに博多に来た折りにその掛軸を見せ、秀吉はこの軸の為に新しく茶室を建てよ、とも命じたそうです。不思議なことにこの掛軸が秀吉の配分記録の中にあり、そして徳川家康の手に渡るわけです。
 井伏鱒二はこの掛軸の運命に惹かれたようです。そして、宗湛の日記を口語訳することで、秀吉という人間を一人の茶人の目というフィルタを通しながら、もう一度解釈し直そうと思ったのではないでしょうか。
 この作品を読んで先ず驚いた事は、この時代の茶人は多忙を極めていたようです。また武将達も彼らを利用することで、自らの地位を確立しようとも考えていたようです。戦国の武将が惹かれた茶の湯が、宗湛の日記にはあるがままに記載されています。使われた道具組、軸、茶室等につては細かく記載されていますが、しかし宗湛の声はしません。これだけのスケジュールをこなしているならば、なんらかの感想を書いてほしいところですが、なにも無い。だから、井伏鱒二は心惹かれるものをこの日記の行間に感じたのかもしれません。秀吉の足取りと、宗湛の日記を照らし合わせることで、あぶりだしのように歴史の真実が見えてくる。そこに登場する茶道具の数々も、歴史の中に翻弄されていく姿が見えるようです。また、秀吉という人間の狡猾さや、茶の湯にに対する強烈な愛着心(特に道具についてはかなり執着していたようだ)。淡々とした文章になってしまったのは、その日その時の茶会の姿をその場で詳細に懐紙に記載し、それを日記に書き写したとのではないか、と井伏鱒二も語っていますがが、感情を入れない文章ゆえに、このような権力者に仕える人たちの気苦労は大変なものがあったと思います。今の時代に生まれて良かったです。
 (今回は表紙の画像はありません。図書館で借りたものですので、巻きを外したようです。出版社は講談社になっています)

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